12.T先輩のこと

自分の大学の演劇部に、Tさんというとても存在感のある先輩がいた。

T先輩は噂では2~3年浪人し、その上また3~4年留年されていたらしく、自分よりかなり年上だった。

また彼は数年前まで部長だったので、現役を引退してからも、時々サークルボックスに出入りされていた。


私は自分の大学の演劇部に入部した形にはなりつつも、他大学の演劇サークルにもフリーで出入りしていたので、T先輩とあまりお会いすることはなかった。

が、彼の豪快なお人柄は、先輩や同期の仲間たちからよく聞いていた。


彼は見た目が聖飢魔Ⅱのデーモン閣下にそっくりだったので、大学祭のときは必ずステージに立ち、モノマネでその場を大きく盛り上げていた。

お酒にしてもお芝居にしても、何をするにも豪快で、その佇まいは勝新太郎や松方弘樹のような、まるで昭和の大スターのようだった。


ある日突然、それは本当に突然のことだったのだが、T先輩の訃報が届いた。

当然の如くとても驚いた。

驚き過ぎて、しばし呆然としたのを今でも覚えている。


彼は元々心臓が悪く、常に爆弾を抱えているような状態らしかった。

周りの人たちにどこまでそれを伝えていたのか分からないが、少なくとも私は知らなかった。

大学祭のあの大きなステージで、堂々と煌びやかに歌い、パフォーマンスする姿からは到底想像出来なかった。

何せデーモン閣下似のがっしりした体型だったので、誰よりもタフに見えたし、打ち上げの時など、お酒もかなり飲んでいたと聞いていたのだから。


ただ、私は思った。

T先輩はご自身に爆弾を抱えていたからこそ、そういう生き方を貫いたのではないのかって。

やりたいことを我慢して細く長く生きるよりも、T先輩はT先輩らしく彼自身の人生を生き抜いたのではないのかって。

それがたとえ、寿命を縮めることになったとしても。


正直彼の親しい方から、もっと自分を大切にすべきだったという声があったのは否めない。

それは確かにそう、私もそう思った。

が、彼はどうしてもそれが出来なかったのではないだろうか。


一方で、自分自身の病気のことも考えた。

そして発病当初主治医の先生に、「この病気は、細く長~く生きて行くことがおすすめ」だと言われたことを思い出した。


当時コントロールは決して良くなく、自分では必死で努力しているつもりなのに思い通りにならなかった。

私はこのままいくら努力しても報われない努力を、ただ延々と一生続けるのか。

しかもそんな必ずしも報われるとは限らない努力をするために、やりたいことをしない人生に生きる意味なんてないし、もちろんそこに意味なんて見いだせないとまで思っていた。


まず医師は医師の立場でしか指示を出せないし、また誰に相談しても、どうすることも出来ない。

それ以前に相談する人もいなければ、今のようにインターネットで患者同士の情報を得ることも一切出来なかった。

あの頃はふと気が付くと、いつも長くて暗いトンネルの中にいたような気がする。


あれから何年も、何十年も時は経ったけれど、何故かT先輩のことは、真夏の花火の季節に思い出すことが多い。

中でも、打ち上げ花火を見ると必ず思い出す。

そして思うのだ。

短くても大きく華やかに夜空を彩る花火は、やはりとても美しいって。


私はT先輩がT先輩らしく生きた、その生き方を、今でも心から尊重したいと思っている。

ずっと大好きな藤城清治さんの影絵。


【追記】

かつてT先輩のことをブログで綴ったような気がして、過去のブログを探してみたら、発見。

当時、誰かに病気のことを打ち明けようとしていたのか?…今となっては覚えていない。

日日是好日

1987年から平成までの、1型糖尿病と共に過ごした日々を綴ります。 今日一日がたとえどんな日であっても、ベストを尽くせばすべて好し。 これからも、そんな気持ちで日々を過ごして行きたいな。 2019年4月4日~