21.教育入院
就職先が東京の会社と決まったのにもかかわらず、当時肝心の1型糖尿病のコントロールはかなり厳しい状態だった。
それどころか精神的にも不安定で、神経科で眠剤まで処方して頂いていた。
そこで主治医のK先生から教育入院の提案あった。
一度入院して、とにかく数値をしっかり落としてみては、と。
思えば、発病から約4年。
この病気との付き合い方は、発病時、一応通院先で一通り教えて頂いてはいたものの、結局最初の1~2年くらいしか病状は安定していなかった。
なので食事のメニューや運動のタイミングなど、改めてここで見直すことが出来るのは、良い機会だった。
またこの時を境に、それまで主治医だったK先生から2人の先生を紹介された。
まずその教育入院する先の病院の先生と、上京先の病院の先生で、前者は1型糖尿病の専門医、後者は一般(2型?)の糖尿病の先生だった。
(実はこの後者の上京先の先生が、どうやら1型の専門医ではないということに気が付いたのは、実際後になってからだった。K先生、どうせならせっかくの東京だもの、1型専門医を紹介して欲しかった~!何故だ~?!)
その後就職先の会社の寮に入る関係で、3月下旬から上京するため、2月の下旬に入院した。
K先生から紹介されたI先生は、1型糖尿病専門と言うこともあってか、今までとどこか違っていた。
それはすべてにおいて、こと細かく具体性を帯びた指導だった。
中でも食事について。
決められたカロリー内に抑えるには、何ををどれだけ減らして食べるか…など。
退院時に渡された手帳の記録を読むと、懇切丁寧な指導がしっかりと記入してある。
今考えてみると実際公の場で、特に改まった場では、まず残すことを前提に食事をするというのはかなり難しかった。
というのも大体の人は、子どもの頃から残さず食べることがお行儀が良いと躾けられているはず。
歳を重ねて、ある程度自分自身を周りに出せる強さがあればそうでもないが、若い頃はとにかく周りに気を遣ってばかりいた。
そしてそれが後々すごいストレスになって行くことを、当時はそこまで想像することも出来ず、ただただ言われたことを忠実に守ろうと必死だった。
今、当時の手帳を見てみると、入院中はさすがにコントロールは徹底管理されていたけれど、約1か月の数値を反映するHbA1cはかなり高いままだった。
よくこの数値で親元を離れ、しかも東京で寮とは言えど一人暮らしをしようとしたものだと、我ながら唖然とする。
でも一方で、そうまでして家を出たかったのか、夢を叶えたかったのかと思うと、そのどうしようもなさに、今となっては諦めの境地に至ってしまう。
当時母は入院先で、私と同部屋だった患者さんたちに、
「よくお嬢さんを、こんな病気なのに手放すわね。」
と言われたらしい。
今となっては私の行動は、親の気持ち子知らずの典型的なパターン。
母よ、本当に申し訳なかった。
ただ心からそう思いつつも悲しいかな、やはり思うのだ。
あのまま家に居ても、自分はきっともっと駄目になっていただろうと。
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