27.食とコミュニケーション
1型糖尿病を発症してぶつかった数々の壁の中で、「食」に関するもの、というより、結局はそこから広がる人間関係が一番大きな壁だった、と言っても良いかもしれない。
と言うより、未だそう感じるときがある。
まずは「食」そのものに関して言えば、好きなものを好きなだけ、好きな時間に食べることが出来なくなったことが、第一の壁だった。
今まで当たり前のこととして自由に食べることが出来たのに、そう出来なくなったことに対する喪失感は、やはり発病当初が一番強かった。
けれど30年以上経った今、その間もちろん異常事態も多々経験したけれど、「食」そのものの壁は、ようやく乗り越えられたような気がする。
ただ「乗り越えられたような気がする」とは言っても、それはあくまでも自分のペースが守れる場合において、のみのこと。
実際には「誰といつ、どいういうかたちで食を共にするか」というところで、第二の壁にぶつかり、正直今も時として、その選択に悩むことがある。
特に学生時代や社会人になり、一気に人脈が広がった時期には、格段に「食」を介したコミュニケーションをとる機会が増えた。
学生時代は、ゼミやサークル活動、アルバイト、コンパなどで。
社会に出たら飲み会や仕事上のお付き合いで(と言ってもそれらは、持病以前にこういう場はどれも苦手だったので、ほとんど断っていたけれど)、と言ったふうに、それらのお誘いをすべて受けてしまうと、ほとんど毎日のように外食になってしまう。
そのため当時は常に新しい出会いや、それらの出会いを深めるチャンスを取るか、それとも自分の体調を守るかの選択を強いられていたような気がする。
私は元々人見知りなこともあり、決して積極的に友だちを増やしたり、いろんな場所に出て行くほどの社交性は持ち合わせてはいない。
けれどそんな私ですら、いろんな場で公私共、数多くの出会いのチャンスを自ら棒に振った。
当時私が指導された食事療法というのはとても厳しく、カロリーによる食事制限をされ、尚且つ普段、インスリンも自己流で増減することは禁止だった。
食事を目の前に、公の場で、どれをどのくらい残すかという消去法の食事療法は常にストレスで、その上少しでも食べ過ぎると、何とも言えない罪悪感と言うか、後悔に苛まれたものだ。
ただ時代はどんどん変わり、最近の1型糖尿病における食事療法は、各食事の中の炭水化物(カーボ)を計算(カウント)して、それに応じたインスリンを打つことで血糖コントロールするカーボカウントという方法がよく取られている。
それによって食べる量や種類に応じて、患者の手に委ねられたインスリンの量を打つことで、常に臨機応変に、以前よりずっと自由に食事をとることが出来るようになった。
なのでこの方法が患者たちに推進されることによって、随分気が楽に、そして何よりも食事をその場に集う人たちと楽しみ易くなったと思う。
食事というのは、単に食べるという行為以上に、人と人を繋ぎ、その関係をより深めるための大切なコミュニケーションツールでもある。
1型糖尿病だけでなく、アレルギー疾患(小さなお子さんは特に大変!)や腎疾患(←これがまた、なってみたらかなりキツイ!)、他にもいろいろな食事制限のある病気はたくさんある。
それら制限を持ちつつも、いかに周りに遠慮することなく、周りからも気を遣われ過ぎないよう、上手く溶け込みながらその食事の場を楽しめるか。
制限があればあるほど実際は難しいけれど、そこを乗る越えることが出来るようになったら、そういう食事制限をしている患者たちの心の負担が、かなり大きく変わるような気がする。
↑画像はお借りしました。
入社したての頃、総務・経理部みんなで、K部長に初めて連れて行って頂いた叙々苑。
当時東京には、こんなに美味しい焼肉屋さんがあるんだ!って驚いた。
インスリンを増やすことが出来なかったくせに、ほとんど食べてしまった記憶が…チーン。
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