30.ファックス診断

上京前の教育入院時にお世話になったI先生に連絡を取ったところ、その後その病院を辞められ、開業されていた。

そこへGWだったかお盆休みだったかに帰郷した際、一度訪ねに行ったような記憶がある。

そこで早速、上京先の病院でどのような治療を受け、今どういう症状かを改めて話した。


その時の記憶で未だ強く心に残っているのは、先生がしばらくじっと黙って一点を見つめ、その後先生の目がみるみる真っ赤に変わっていった、そんな姿だった。

先生がその時何を思い、何を考えていらっしゃったか、具体的なことは私には分からない。

けれど何故かこのとき、とても心がほっとしたのを覚えている。

嗚呼、やっとこれでしっかり診てもらえる、そして、きっとこれで楽になれる、と。


そしてこの時を境に、今後東京で私が1型糖尿病と共に生活し、生きて行く上で、これからは地元にあるI先生のクリニックでお世話になることになった。

とは言っても、地元と東京ではかなりの遠距離。

毎月通うには金銭面でも体力的にもとても大変で、その上当時はインターネットやメールなどない時代。

なので日々の血糖値を記した、今で言う自己管理ノートのような用紙を、月に一度クリニックへファックスで送信することになった。

それを診て、I先生がインスリンなどの処方をしてくださり、それら医薬品を自宅の寮まで郵送して頂くことになったのだ。

ただよくよく考えてみると、当時このようなファックス付きの電話機は持っていなかった。

何となく会社に事情を話して、会社から送らせて頂いていたような記憶が…。

今考えると、会社に甘えっぱなし。


それにしても今思うとI先生が、例えば東京のどこかの1型専門の病院を紹介されるでもなく、ご自身で診ようとしてくださったこと、ありがたかったと思う。


こうしてI先生の指示により、何とか朝の危ない状況からは逃れることが出来た。

が、残念ながら血糖値そのものは、依然ずっと高いままだった。

慢性的なストレスか、それとも女性ホルモンの兼ね合いなのか、インスリンを入れても入れても下がらない時期が多かった。

そのうえインスリンの効きが常に不安定で、血糖値が高い時にその分多く入れれば低血糖。

怖くなって控えめにすると高血糖。

ずっとその繰り返しだった。


ところで、未だ私は疑問に思うことある。

当時あれだけ乱れたコントロールだったのに、何故一度も意識を失うことがなかったのだろうって。

本当に、よくあんなサバイバルな日々を生き残れたなぁと思うのだ。


あの頃、いつ救急車に乗っても不思議ではない自分の状態を恐れながらも、実はその後、全く違うかたちで救急車に乗ることになろうとは、その頃思いもしなかった。

日日是好日

1987年から平成までの、1型糖尿病と共に過ごした日々を綴ります。 今日一日がたとえどんな日であっても、ベストを尽くせばすべて好し。 これからも、そんな気持ちで日々を過ごして行きたいな。 2019年4月4日~